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生ゴミリサイクルにご協力ありがとうございます   (2000年9月10日)

 生ゴミリサイクル運動も始めてから11年を経過しました。生ゴミの分別も最初からご協力頂いている方は、もう生活の習慣になっていると思います。
 リサイクルされた堆肥は土の自然を取り戻し、美味しくて健康に役立つ作物を育ててくれることが明らかになりました。
 生ゴミは土作りの貴重な資源で、無駄に焼却すべきでないのです。そうした認識が生ゴミを分別し水を切って出す行動を支えてくれているのだと思います。
 私は生ゴミリサイクルの輪を広げて、りんご王国の復興や健康増進を計るべく有機栽培の拡大を目指しています。
 りんごは有機栽培によって昔のように色も味も良くなり、流石に「津軽のりんご」だと言われるようにしなければなりません。
 又有機栽培された野菜は本来のビタミンやミネラルを含んでいて、健康に役立つことは間違いありません。
 大部分の家庭から出る生ゴミも産業廃棄物の生ゴミもまだまだ無駄に捨てられているのですが、それらを殆ど有効にリサイクルするためには広い場所と大きな設備が必要です。
 私は再三行政に意見を述べてきましたが、取り上げてもらえませんでした。
 温泉旅館街でお客さんが見えられる地域の環境を綺麗にするために、生ゴミを分別収集することはそれなりに意味のあることではありますが、私も何時までもやれる訳ではありません。
 生ゴミの分別を実行されてこられた皆さんからも、その必要性を人づてに広められてやがて行政か団体で実施するようになることを願っています。
 生ゴミの分別は煩わしいものだと思います。商店から出てくるものは随分丁寧に扱ってくれて感謝にたえませんが、時には使った軍手やゴム手袋等がそのまま入ってきたり沢山の燃えるゴミが混じってきたりすることもあります。
 家庭用も最近は水が多くて一つ一つ水切りをしている有様です。水を入れるとどうしても臭いがしできますので、そうならないようにお互いに気をつけたいものです。今年もまたよろしくお願いいたします。
 これまで生ゴミリサイクルの運動を一緒にやってきた津川さんは、独立して大川原で生ゴミリサイクルをしながら農業で生計をたてていくことになりました。
 国から資金を借りて大きなビニールハウスを建て、そこで鶏を飼ったり生ゴミを堆肥にしたりします。また苺やトマトを栽培するそうです。
 借りたお金は返さなければいけませんから、生ゴミ集めもボランテアというわけにはいきません。車の油代位は頂いて経費を節約しなければなりません。
 農業で1年に何百万円も返していくことは大変な事だと思いますが、津川さんなりに採算がとれる工夫をしているようです。皆さんからもうまくいくように声援を送ってあげてください。

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7年前に堆肥作りを学んだ小泊のご婦人   (2000年9月9日)

 宅配便が来て魚がたくさん届いた。送り主は小泊教育委員会長内とある。記憶にはあるがなぜ今魚を頂くのか分からなくて、記録を調べる。
 1993年8月19日の日記に小泊村婦人生活学校から20名が見学に来ていた。代表の長内エツ子さんと共に堆肥づくりの現場を視察に来ていた。
 金木改良普及センターの佐々木さんが斡旋したとある。
 その後何度かZ菌の注文があって送ったことはあるので、多分堆肥作りを続けているのであろうと思ってはいた。
 先日普及センターの佐々木さんが堆肥作りの仲間を連れて、土着菌作りの実習に来たとき菌を3袋ばかり持っていったので、或いはそれを小泊に届けたのではないかと思った。
 兎に角礼状を書いたら、間もなく電話があって佐々木さんが菌をたくさん届けてくれたからお礼に魚を送ったのだと言うことである。小泊は漁港だから魚のあらが沢山出て捨てるのに困る程なので、ずっと続けて堆肥を作っているのだそうである。
 それにしても7年前に訪れた皆さんが、今まで堆肥作りをしているというのだから全く嬉しい便りである。一度訪ねて堆肥作りの様子を見てみたいし、改めて交流を深めたいものである。

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なぜ有機栽培が普及しないのか   (2000年9月8日)

 水田の後に作った畑にりんごの苗を植えてから2年になる。とにかく土を良くしなければというので、藁を入れたり生ゴミ堆肥を撒いたりしているが、特別木の勢いが良いというわけではない。
 今年は凄い尺取虫が発生して、ストチュウとか発酵剤を撒いても殆ど効き目がないようである。殺虫剤を掛ければ一度で効果が出るのであろうが、有機無農薬にこだわっている倅は、一回使ったら折角の無農薬も台無しになってしまうから駄目だと言って、発酵剤で虫と戦っている。
 来年辺りからそろそろりんごが成り始めるのだが、こんな状態では一体どうなることやら。
 一方水田は1年目、反当8俵・2年目の去年は反当5俵、「つがるロマン」は背が高くて倒伏しやすいからというので今年は「秋田こまち」に変えたのだが、見た目にどうやら4俵いくかどうか怪しいものである。
 今年は去年に比べて稗はやや少ないようだが、コナギという雑草が所々びっしり生えている、この雑草は養分を横取りするらしくてイネの生育が悪いのである。
 農薬を使っている水田に比べたら、ほったらかしの自然農園みたいなものだけれども、有機無農薬と言うからにはこれで通すより仕方がないであろう。
 科学肥料から有機栽培に切り替えた実践を読んでみると、やはり4~5年は収穫が当てにならないと言っているから、今年あたりが最低なのかも知れない。
 水田は今年で3年だから、もう1年か2年は4俵位で我慢しなければならないのかも知れない。
 こんなことだから、環境のためにも健康のためにも有機無農薬が必要だと言っても生産高に生活がかかっている農家はその気になってくれないのである。
 だからこれを実行するのは一つの革命だと思うのである。私はこれまで続けてきたこの運動を通してどれだけの人たちに影響を与えることが出来るものだろうか。

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夏になって集まる生ゴミも変わってきた   (2000年8月25日)

 今年はメロンが豊作だと聞いていたが、やはり店からも家庭からもメロンや西瓜の皮が例年よりも多く出てきた。
  これらは直ぐには腐らないので、細かく刻んで入れるしか方法がないのである。
 ホヤやトウモロコシの芯と皮はいつまでも残るから念入りに細かくしなければならない。
 トウモロコシは実が付いたまま捨てられるのが多い。私は自分で作ったトウモロコシは美味しくて一粒も粗末に出来ない。どうしてこんなに無駄に捨てるのだろうかと不思議でならない。
 化学肥料で大量に生産されるものは美味しくないのであろう。もっと食物を粗末にしないようにしなければならない。

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発酵機の修理代が高くて困る   (2000年8月22日)

 新しい発酵機が入ったのは1995年9月25日だから、まだ5年しか使っていない。それなのに毎年故障があって、修理に追われてきた感じである。
 1年目の1996年8月30日にバーナーが故障して取り替えたが点火するセンサーが働かないので自動点火装置を外してしまった。
 2年目の1997年6月29日にはモーター変速機が故障。変速機のオイルが漏れて動かなくなったもので、これはモーターと変速機の間のパッキンが駄目になったのが原因で取り替える。
 3年目の1998年12月には飼料の取り出し口の扉がすり減ってしまって交換した。
 4年目の199年8月には飼料の取り出し口の上部の鉄板がすり減って補強の鉄板を張り付ける修理をした。
 5年目の2000年8月には制御盤の温度表示が出来なくなって、制御盤の機能は殆どなくなっている。
 こういった調子で、高価な機械にしては故障が多すぎる。変速機の故障は粗末な工作の結果であり本来であればありえない故障である。
 取り出し口の扉及び後ろの鉄板は特に厚くしなければならないということは、この機械を使っている人が殆ど居なかったからこれまで問題にならなかったのであろう。
 さてこの次は出口に近い部分のドラムとゴミを送る鉄の羽根がすり減ってしまうのをどう修理するか考えなければならない。
 元々単純な機械なのだから、あまり自動化する装置を付けるのは問題がある。
 温度表示は便利であったけれども寿命が短いものだと困る。
 私は投入口のゴミの熱さやドラムの中の様子を見ながらスイッチを切っているが、慣れてくればこれで間に合わせる事が出来る。
 これだけ高価な機械が10年しらいの耐用年数では駄目ではないか。10年ぐらい経ったら後部のすり減った部分を簡単に安く取り替えて、又使えるようにするようでないとこの発酵機の普及は難しいと思うのである。

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感心し、喜んで作業した見学者は初   (2000年7月31日)

 近頃、見学者が殆どなかったのであるが、今日は鯵が沢農業改良普及センターの佐々木さんが10名ばかり連れてやってきた。
 佐々木さんのグループは堆肥を作っている人たちで、発酵菌(土着菌)を作る方法を知りたいと言うことである。
 他のグループは堆肥作りをやってみたいというのである。一応説明をして回ったけれども、やはり堆肥作りを経験している人たちは、発酵機の中を見ても鶏舎の床に触っても一つ一つ感動するのであるが、新しい人たちは中々納得がいかないらしい。
 佐々木さんのグループはこれまでZ菌を買っていたのであるが、最近は私が作ったものを無料で上げていたから自分たちでも作ってみたいということになったのである。
 ところで黒森山から菌を取ってきて、試しに培養しておいたら見事に発酵して良い臭いが漂っている。温度は50℃以上あるから、びっくりするほどの熱さである。
 取ってきておいた腐葉土で米糠培養を皆でやってみる。皆夢中で取り組んでいる。こんなに発酵するんだったら堆肥作りも自分で作った菌できっと上手く行くに違いないと思ったのであろう。
 私が作っておいたのも、自分たちが仕込んだのもみんな袋詰めにして大事そうに車に積んでいった。短時間にこれほど感心し、喜んで作業した見学者は初めてである。
 やはり体験してみることが大事なのであって、このことは佐々木さんが一生懸命に周りの人たちを指導してきた結果である。こうした輪がもっと広がっていかないものだろうか。

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日照りが多くて野菜の出来が芳しくない   (2000年7月10日)

  今年は日照りが多くて野菜の出来が芳しくないようだが、7月8・9日と台風三号の雨のお陰で作物が生き返ったようである。
 我が家の菜園は苗を買ってきて早く植えるようなことをしないので、今やっとキュウリやササゲが取れ始めた。それが又歯ざわりが良くとても美味しくて、今まで店から買ってきた物とは比べものにならない。
 昔からこの季節にキュウリやササゲが取れたはずで、まさに旬の味というものであろう。銭湯の中で農家の方々の話を聞いていると、今年はナスが少しなった後ならなくなったとか、西瓜のなりが少ないとか作物の成長が例年と違うという話をしている。
 その代わりメロンが鈴なりだという話もある。春から急に真夏のような日差しにさらされて、自然の調子が乱れれば作物の成長もおかしくなるものであろう。
 我が家の菜園ではトマトもナスもまだ収穫には間がある。トウモロコシもよその畑では花が咲いているが、ここではまだその気配がない。ちょうどお盆の頃がこれらの野菜の旬だと思うのである。そしてその頃が一番美味しいと思うのである。
 今は農業の方法が変わっているし、四方八方から野菜が集まってくるので、旬の味を楽しむという気分はなくなってしまった。
 暑い夏の最中に裸で西瓜を食べるとか、キュウリに味噌をぬって食べるといった夏に相応しい食べ方が姿を消してしまった。
 何時でも何でも手に入って食べられるから、旬の味というものはなくなってしまったようである。私の所ではまだ昔のまんまのやりかただから、辛うじて旬の味を守り続けているのである。

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黒石中学校当時の友人の集い   (2000年7月8日)

 荒れる黒石中時代に特別お世話になった祖父尼さん・岡崎さん。井筒さんは、その後も深い付き合いをして頂いている。
  近頃はお互いに忙しかったり健康を害したりで顔を合わせる機会が無かったのであるが、黒石中時代の同僚である大野さん鎌田さんが退職、伊藤さんが教育長になられた事などを合わせて激励する会合を持とうということになったのである。
  こうして昔の仲間が顔を合わせると、やはり当時の子供たちのことが話題になり、懐かしくて時の経つのも忘れてしまう。私自身は何も出来なくていたって恥ずかしいのであるが、あれはあれで仕方がなかったような気がしてくる。
  みんなそれぞれに苦しんでいたので、それに私が何かと意見を言うほどの識見がなかったからである。上司にはさんざん悪口を言われたけれども、それも又当然の事だったと思うのである。
  今となっては同僚の皆さんからも父母の皆さんからも沢山お話を聞いてみたい気持ちになってくる。
 さて私の生ゴミリサイクルもN建設さんに大きな負担を掛けて、このまま何時までも続けている訳にも行かないと気になっているのである。これも皆と相談をして解決しなければならない問題だが、今日はそんなことまで話が進むはずがない。
 然しそう度々会合を開くわけにもいかないので、暫らくは一人で悶々と考えていなければならないことだろう。

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野菜が元気になる初夏となった   (2000年6月30日)

 一年中で一番目の長い夏至の頃には3時に起きて出掛ける時刻は、東の空が明るくなっていて冬の頃には想像も出来ない程の季節の違いに驚いている。
  4時少し前に鶏達の水桶を洗うのに、電灯を点けなくてもやれるのは有り難いことだ。
 私が作った堆肥を使って4~5年にもなれば、土も出来上がって作物の出来も良くなっているので、そんな報告が聞かれるようになってきた。
 キュウリが立派に出来たから食べに来いというのもいて、楽しくなってくる。途中で堆肥を買いに来なくなった人もいるが、野菜作りを止めたのかも知れない。
 今年は雨が少なくて、夕方水やりをしても殆どしみ込まないのですぐ止めてしまうのである。私は大抵種で植えるから成長がよそよりも遅いのが常だが、特に今年はキュウリもトマトも里芋もまだ小さくて先が思いやられる。
 エンドウは花が止まってしまったし、葱も晩成の豆も苗を植えるのに一雨欲しいところである。
 6月27日朝から夜中まで待望の雨が降った。干天の慈雨である。畑の土は大分中まで水を吸い込んで、作物も生き返ったようである。家庭菜園が活気付いたと見えて、追肥にする堆肥の注文が出てきた。

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同級生のSさんが亡くなった   (2000年6月6日)

 めったにないことだが、4月の末に皆で弘前の食堂へ夕飯を食べに出掛けた。
 その時偶然私の同級生のSさんの家族も来ていて、珍しく会えたことを喜びお互いの健康を誓い合って別れたのである。
 それが1ヶ月も経たないうちに亡くなったということを聞いたものだから、俄に信じがたい気持ちであった。
 あっちこっちに真偽の程を確かめ、4~5日経ってから妻と二人で仏様を拝みに行った。
 Sさんは中学校の同期で、昭和57年に私が黒石中学校に転勤した時にそこに彼も勤めていたのであるが、その年限りで彼は退職したのである。
 私は済まないことをしたという気持ちがあって、余り深い交際もしてこなかったのである。そんなときに一寸の間だけれども、家族同士の出会いがあってとても嬉しかった。
 その日彼は長い闘病生活から解放されて、みんなで美味しいものでも食べに行こうといって出掛けて来たのだそうである。
 それから何日間か家に居て、今度は放射線科に入院して間もなく帰らぬ人になったのである。
 放射線の照射も次第に苦痛になりやがて熱が出てきたので、医師に相談したら、それは放射線から出る熱だということで、取りあげてくれなかったというのである。それでも熱が下がらないので、手術をしてもらった外科へ行って診てもらったら肺炎になっているための熱だそうである。そして間もなく彼は亡くなったのである。
 病気になれば医者を信じ、医者任せにしてきたのであるが、こんなことになると医者に対する不信感が強く残るのである。
 「大きい病院てなんもいいもんでない。他の科とは全く連絡がとれてない。放射線科ではそれ以外のことは全く分からないのではないか。」と奥さんは口説く。
 大病院の各科の連絡が不十分なことは、体全体の健康を管理する上からも問題がある。放射線医が肺炎を診断できなかったことは誠にお粗末である。
 ガンを摘出した後で放射線によってガン細胞の発生を防ぐにしても、命がどれだけ持つのか考えた上でのことでなければならない。
 放射線医はもっぱら放射線を当てるだけが役目では一体何のための医療なのか分からない。放射線によって細胞は死んだが、身体も死んだということになりかねない。しかも余計に苦しんで沢山の医療費を注ぎ込んで死んでいくことになるのである。
 よく後何ヶ月の命と言われることがあるようだが、こんな時に放射線なんて必要なのであろうか。
 今ガンになったら、病院では切って焼いて死ぬのを待つしかないようなものだ。
 されば、ガンにならないためには正しい食事をして(玄米・味噌汁・漬物・・・)元気に仕事をしていれば良いのではないかと思うのである。
 余り美味いものを食べてごろごろしたり、ストレスを貯めたりすると血液が濁って、ガンや色々な病気になりやすいようである。
 私は「正食と人体」という一倉定さんの体験的健康学という薄いパンフレットを読んで、私達の健康は私達が守らなければならないことを痛感した。
 病気になったとしても医者任せではいけない、かといって近頃の宣伝は間違った健康法が沢山あるようである。

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田圃の仕事が最盛期となる   (2000年5月2日)

 水田の作業が始まる前にやらねばならないことがある。今年は1反歩当たり3トンの堆肥を入れる予定で、秋に2トン入れてあるので春には1トン入れなければならない。ところが雪の消えるのが遅かったために、田圃にトラックが入れないで堆肥を入れるのが遅れてしまった。
 しかしのんびり待っているわけにもいかないので、今日は袋詰めをした堆肥を積んで昼に一人で田圃に入った。余り一杯荷を積んでいなければ大丈夫である。
 作業場へ引っ返して堆肥の袋詰めをして、車に積み終えた所に倅が応援に駆け付けてくれた。倅がアルバイトをしているので、私が一人で出来るだけやっておきたいと思っていたのであるが、今日はバイトの仕事が一段落したそうである。
 今度は二人で、袋詰めの堆肥を田圃に撒く。それからは二人だからトラックに枠を立てて、堆肥を積む。シトシトと雨がこぼれてきたけど、余り土が凍れない内に幾らかでも運んでおきたいのである。トラックのバラ積みは袋詰めと違って大分多く入る。
 バラ積みの二回目は雨がひどくなった。でも凪がなくて堆肥まきは助かる。少し無理をしてトラックで四回も運んだから、あと二回運べば完了することになる。
 翌日は珍しくよく晴れた。件のバイトの昼休みの問に堆肥を運ぶことにする。倅はそんなに急がなくてもよいというのであるが、明日からまた天気が荒れる模様だというし、万一の事を考えて予定したことをやってしまうに越したことはない。
 昼から作業に取り掛かる。枠を立てたトラックに堆肥を積んで田圃へ運び、スコップで撒いていくのである。二回運んで約3トン撒いたことになる。予定していた仕事が片付いたのである。明日はどんなに雨が降ってももう心配することはない。誠に晴れやかな気分である。
 袋詰めの堆肥を撒くには、20kg近い袋を抱えて揺すりながら歩くのである。袋詰めも一人ではなかなか骨の折れる作業であり、これはやはり70年寄りでは体に無理がある。夜中に太股に痙攣が起こって苦しいし、足腰の関節に力が入らない。
 これは多めの運動によって、その部分の栄養補給や老廃物の排除が充分に行なわれていないためだと思われる。一倉定氏が言っているように、新陳代謝の役割を担っている塩を補給すれば良いことになる。そこで卵醤を作って飲むと、痙攣はたちどころに解消するし足腰の疲れも早く取れるのである。
 こんなことを言っても余り信じてもらえないと思うのであるが、自分の体で確かめてみると本当のことだと納得がいく。
 若いうちは余り感じないことでも、年をとると体の調子の変化はそのまま現われるのである。だからその時の処置はきちんとしておかないと、後々に蓄積して病気を起こすことにつながっていくのである。
 アレルギー等の子供の病気も、親たちは病院にまかせておけば何とかなるだろうと思っている。ところが体の調子ぐらいでは「なんともない」といわれるに決まっている。これは食と塩に関係する問題が多いわけだから、私達自身で確かめて健康を守るように心がけなければ解決しないのである。

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冬の間に仕込んだ生ゴミ肥料が売れる   (2000年4月22日)

 今年は冬が後にずれた感じで雪の消えるのが遅れているために、堆肥の注文がないけれども、これまでの需要の様子から考えれば随分忙しくなるのではないかと思われる。
 4月に入って雪も降らず順調に春らしい陽気が続いて、ようやく土が見え始めたら、堆肥の注文が出てきた。この分では家庭菜園だけで殆ど出てしまうような感じである。
 今日も常盤の古川さんが花の栽培に使いたいといって持っていった。野菜は勿論のこと花の栽培にも、土作りをしないと駄目になってきたようである。
 常盤の米村さんは農協のポカシといっしょに私が作った堆肥を入れて有機米を作りたいと意欲的である。常盤は農協が早くから有機栽培を奨励しているために、農家の意識が他の市町村に比べて一段と高い感じである。
 春の到来が遅れると、春の仕事の期間が短くなるわけだから、堆肥も続け様に需要に応えなければならないことになる。22日の土曜日には早くから堆肥の袋詰めをして、有機栽培の実践者を待っていたのである。思ったとうり相馬から大釈迦からとやってきて、やっと間に合わせてやることができた。
 午後は製材所からおがくずを作業場へ2回運んで、帰ろうとしたところへタイミングよく樽沢から取りにきた人があって積んでやる。それから弘前へ6袋配達があって、やっと1日が終わったという気持ちになる。

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商工会議所の環境部会から講師依頼が来た   (2000年4月18日)

 商工会議所の環境部会から「食と環境」について話をしてくれ、と又やたらにでかいテーマを頂いた。もう話は止めたと決めていたのであるが、食の問題は若い人たちに考えてもらわなければならない気がして引き受けてしまった。
  今起こっている困った健康状態はアレルギー体質や沢山の食中毒、果ては介護を要する老人の多いことであろう。子供たちも学級崩壊とか凶悪犯罪が多発して、少年法の改正とか教育を建てなおすとか国会で大人たちが真面目に議論している。
 然しそのいずれも狂っている食を正さない限り解決の道はないと思っているのである。
 その1、これまで破壊し続けてきた土の自然を取り戻し、ビタミンやミネラルを含んだ安全で健康に良い食物を土の力で育てる必要がある。化学肥料と農薬で育てた生命力の乏しい作物は紛れもなく私達の健康を侵してきたのだ。
  花粉症や色々な食物アレルギー・アトピー性皮膚炎、次々に現われる新しい黴菌による食中毒等は体の抵抗力が衰えてきたたために起こる現代病である。
  化学肥料が出現する以前はこんな状態ではなかった。これからは有機無農薬の農業の実現を目指すべきである。このことはりんご産業にとっても重要な課題である。化学肥料や農薬から脱皮して土作りをすることによって、安全でおいしい林檎を作る以外にりんご王国の再建ほありえない。りんご農家も農薬まみれの不健康な作業から解放されなければならない。
  このことは農業だけでなく、商工業界の振興にも役立つ大変大事な糸口となるものである。
 その2、夫々の土地には伝統的な食事がある。長年その土地で暮らしてきた人たちが体験的に会得した健康食で、その土地の気候風土に最も適したものである。それがカロリー栄養学に押されて姿を消しつつある。このことが我々の健康をめちゃめちゃにしている大きな原因であることを思い起す必要がある。
  トーストに牛乳に果物ではわれわれの体は保てないのである。もう一つ、玄米に味噌汁に漬物の伝統食の効能を体験的に確かめる必要がある。カロリー栄養学の影響で土地の伝統食を捨てて滅びかけている民族がいることを学ばなければならない。
 その3、一倉定という方が唱えている「体験的健康学」によると塩の大切さを説いている。減塩減塩とやたらに塩を敬遠するようになってから、体の調子を崩す人が多くなっている。高血圧予防のため減塩というこであったと思うが、老人は足腰が不自由になってやがて寝たきりになる。これも塩分の不足がもたらしたもので、血液中の塩分の量が充分であれば(0.85、85%)ボケも介護を要する老人も此れ程出るわけはないというのである。
  養護老人ホームが盛況で、希望者が後を絶たないという誠にみっともない長寿国である。塩といっても純粋の食塩は害になるもので、昔ながらの海水から直接とったものでなければならない。これはなかなか手に入らないが、会員組織で買うことが出来る。何れにしてもこうした食の問題を研究して我々の健康を守ることをもっと真剣に考えるべきである。 

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冬の間ため込んだ家庭生ゴミを持って   (2000年3月21日)

 知人のIさんが冬の間の溜まった生ゴミを持ってきてくれた。新聞紙3枚ぐらいに1日分の生ゴミを包んである。これが生ゴミを燃えるゴミとして収集所へ出す方法なのである。
 こんな包みが50~60個、大きなビニールの袋に詰めてある。これが2カ月分の家庭の生ゴミであろう。新聞紙を開くと生ゴミの水分は新聞紙が吸い取って、生ゴミはひからびている。
 大抵は生ゴミが濡れた新聞紙にくっついて余りよく取れない。新聞紙を取りのぞいて発酵機に入れる私の作業では少し厄介である。
 でも、生ゴミそのものは水分が切れていて、水分調節剤が殆ど要らない具合の良いものである。皆がこんな調子で生ゴミを出してくれると、焼却するにも燃えるゴミと一緒に自然と燃えていく状態である。
 Iさんの持ってきてくれた生ゴミはこの新聞紙に包んだ他に、EM用18リットルのコック付きのバケツに入ったものが2個あった。これは新聞紙に包んで水分を切った状態の生ゴミが一杯入っていた。
 これはEMのポカシ和えをした様子もないが、冬期間のためか全然悪臭がない。これはそのまま発酵機に入れた。
 生ゴミをこんな風に手当てをして出せるのであれば、街全体の生ゴミを無駄に焼却しないで私の所で資源として生かすことが出来るのである。ゴミ焼却場では生ゴミは自然に燃えると言っているが、私の所で扱っている病院等から出てくる生ゴミは新聞紙なんかに包んで出せるようなものではない。
 これらを焼却釜にそのまま入れると燃焼の妨げになることは間違いないであろう。 

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75歳の誕生日を迎えたという事は   (2000年3月12日)

 80歳ぐらいまでと思っていた余生も終盤である。幸いな事にひどい病気もせずに毎日動き回っている。
 お腹の調子がおかしいときは我神散をのみ、腰が一寸痛くなれば卵醤を飲み、風邪の感じの時は六神丸を飲んで早く休む、といった調子でずっと作業を休んだことがない。
 勿論妻も割合に元気でいるから私も仕事が出来るのである。妻も3月20日で72歳の誕生日を迎えるのであるが、腰が痛いと言いながら感心に雪片付けをしている。私は当てにならないと思っているのであろう。
 最近は孫達がいるので、誕生日にはにぎやかにお祝いをしてくれる。有り難いことである。
 今年の誕生日は運転免許の更新がある。この次の免許の更新期限は77歳までの3年間である。この次の更新が終わると80歳までが免許期限となり、その次が83歳までの免許となる予定である。
 ここまでで生ゴミリサイクルは20年になるから、車に乗るのも終わりにしなければならないだろう。

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今年は豪雪で積雪が大変なことに   (2000年2月29日)

  毎年2月には屋根の雪が落ちて窓をふさいでしまうから、特に南側は除雪機を使って大々的に雪掻きをするのである。これはとても年寄りだけで出来る作業ではない。
 最初から雪の心配をしなくても良いような家を建てておけばよかったのである。今になってそんな愚痴をを言っても仕方のないことである。葛西さんも誠一さんも、雪の心配がない仙台へ引っ越して行った気持ちがよく分かる。
 今年は2月の初めまで雪が殆どなかったから、雪片付けはしなくても良いのではないかとひそかに期待していたのである。ところが春も間近になった2月の後半から、連日雪が降って大雪の去年に負けず劣らずの積雪になってしまった。
 屋榎から落ちてきた雪はもう庇に届くほどの高さになって、これ以上放っておくと次に落ちてくる雪がガラスを壊すようなことにでもなれば一大事である。
 雪の晴れ間をみて軒下の雪片付けを始めた。いっぺんに積もった雪だから氷になっているところもなく、アルミのスコップで楽に1メートル位削ることが出来た。これだけやっておけば後は下の方から融けだすから、ひとりでに低くなっていくであろう。
 案外楽に出来た雪掻きではあったが、随分疲れる作業である。今年はこれくらいで勘弁してもらえるであろうか。作業場も雪が多くて、毎日のように除雪機を運転しなければならなかった。雪片付けをしていると堆肥運び等の作業が遅れてしまうのである。
 寒さも結構厳しくて、-12℃の朝が1回・-8℃の朝が3回ほどあった。同じ-8℃でも、朝方急に冷えるのとずっと冷えているのでは、ゴミの凍り方が全く違うのである。とにかく-8℃位にもなると生ゴミが容器にくっついて、なかなか出てこないので難儀する。

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