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作文が苦手   (1991年10月23日)

 私は文字を書くのが粗末で作文が大嫌いであった。といって得意なものがあるわけではないが、作文をしなければならないことになると人知れず大変悩んだものである。
  自分で書いた文を後で読んでみると、鳥肌が立っような思いがしたものだ。本も余り読まなかったし、物事を深く考えなかったために作文の能力が一向に進歩しなかったのではないかと反省している。
  これは自分が努力しないのが主な原因だが、生い立ちが大きく関係しているから仕方がないと割り切っているのである。
 とにかくこの作文の苦手なことが一番こたえたのは、校長試験のレポート作りの時であった。当時の教育長が私の書いたレポートを見てくれて、「話言葉と書き言葉がごっちゃで駄目だ。何を言わんとしているのか分からない。」といって書き直しを命じられたのである。
  二度三度と書き直してみても、なかなか良いと言ってくれなかった。そして時々こんなことを言うのである。「教師たちの作文の力は極めて低い。これでは子供たちも満足に文章を書けない人になるのではないかな。」私はこの話を聞くたびに、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたものである。
  いかにも作文は人間の最も基本的な事として、出来るだけの力量を育ててやらなければならないことを痛感した次第である。
 その作文嫌いがこうして『堆肥作りに魅せられて』を書き続けられるのは、どうしても記録しておかなければならないと思う事が次々に起こるし、もはや人目を気にしなくてもよいからではないだろうか。
 それでも人に頼まれて作文をしなければならないことになると、何日も飯が咽を通らない程苦痛である。先日はKMさんの『一沈一珠』の書評を頼まれて、東奥日報に送ったが、なんと6000円もの大金を頂いて恐縮してしまった。これでは益々肩の荷が重くなるばかりである。

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シェーバーが1羽死ぬ   (1991年10月20日)

 9月21日に黎明社から買ってきた三種類の鶏は、まだはっきりと見分ける事が出来ないでいる。比内鶏は羽毛の色が橙色で美しく、シェーバーよりも幾らか大きめである。シェーバーは白と赤があるのであるが、それが中々見分けにくい。
 ある時は大変目立って、はっきりと白赤の区別がつくが、時にははっきりしないこともあるような気がする。ここへ来てから凡そ一カ月、生後百日を越したので大きくもなったし格好も良くなってきた。
 この前からシェーバー赤の1羽が元気なく、肩を落とし首を縮めてじっとしている。つかまえて見ると、胃袋がぐしゃぐしゃしていて尻の毛が白いペンキを塗ったように糞がこびりついている。胃腸を壊して下痢をしたようだが、私には施す術がない。なんとか回復してくれるように祈るしかない。
 この鶏は今朝息が絶えていた。土に返すために発酵機に入れてやる。鶏も環境が変われば、数の中には順応出来ないのがいるようだ。けれども1回目のシャモロックは30羽のうち1羽、2回目は50羽のうち2羽と新しく入れて死ぬ率が3~4%だから、大成功の部類だろうと自分で勝手に決めているのである。
 発酵飼料を入れた鶏舎は鶏の健康に良いことは間違いなさそうだが、一回に余り沢山の雛を入れるのは良くない。群がった下で押し潰されて死ぬのが随分居るからだ。これを防ぐ方法もありそうだが、とにかくこの鶏舎では一回に30羽位入れるのが丁度良いところだろうと考えている。
 さて古いシャモロックは6カ月になるし、新しいのも5カ月になろうとしている。加工する準備も進めないといけない。

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帯に短し襷に長し   (1991年10月19日)

 秋になって旅館街も幾らか賑わっているようで、ゴミの量も少し増えている。容器もやたらに多くなった感じでトラックの荷台になかなか納まらない。ゴミの畳にして一日500リットル~600リットル位だろう。
 二日で1200リットル位になると、発酵ドラムの70%になって、三日目のゴミは入りそうにない。そこで二日で運転ということになるのだが、運転している内に1000リットル位に減ってしまう。これでは一寸足りなくて温度が70℃に達しない。
 三日目、発酵させた1000リットルの飼料を出さないで、更に500リットル~600リットルのゴミを詰め込むのは容易でない。入り切らないで翌日まで放って置かなければならない事態にもなるのである。
 二日めで運転するかどうかは、ゴミの量と質も関係するので、見極めは多少慣れが必要である。二日めに運転して目減りが多いために、運転を中断すると三日めの運転と合わせて燃料が二倍近くかかる事になるのである。
 二日で発酵機を運転できるようだと、鶏の飼料も余り要らないしとても具合がいいのだが、今のところそれは珍しい事である。

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りんご園無残   (1991年10月18日)

 台風19号の後で、N社の母さんが「りんごみんな落ちてしまった。」と言って、落ち実の陽光を一箱持ってきてくれた。その後りんご園には行く気がしなかったのであるが、今日珍しく良い天気になったので、草刈り機を持って出掛けた。
 私が堆肥をやっている陽光の畑は、北向きだけれどもちょうど風の通り道になったようで、全滅と言っていいほど落とされてしまっている。少し残ったりんごはとりわけ見事に赤く色付いている。根元から折れた樹が一本、枝が欠けたのが二か所で樹の被害が少なかったのは幸いだった。
 8月末に草を刈った所は、もうギシギシやタンポポ・ハコベが20~30cm程ものびて、落ちたりんごが隠れてしまうくらいである。少しきれいにしようと思って刈ってみたが、若い草は柔らかくて草刈り機にからみついてとても刈れる状態でない。
 草刈りはやめにして、落ちたりんごを少し拾って帰る。途中のりんご園も殆どは全滅であるが、たまには風当たりの弱かった所もあったようで、りんごがたわわになってそこだけが目立っている。
 いつもなら今ごろから取り入れの仕事が始まっていようものを、見渡す限りのりんご園はがらんとして静まりかえっている。昔の人はこういう自然の災害をどうやって乗り切ったものだろうか、その強かな生きざまを考えさせられるこの頃である。

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ハエが多い   (1991年10月17日)

 気温が下がってくると、ハエが暖かい所に群がってとまる。朝発酵機の周りで仕事を始めると、発酵機にへばり着いていた無数のハエが動きだして、頭や顔にばらばらとうるさくつきまとう。近ごろはショウジョウバエも増えて、鼻や耳に迷いこんで気持ちが悪い。
  自動車のボンネットは暖かいので、いつのまにかごまを撒いたようにびっしりとへばりついてじっとしている。エンジンの中も暖をとるハエが至る所にもぐりこんで、手で潰せるほど動きが鈍い。こんなに沢山のハエを乗せたままゴミ集めに出掛けると、温泉旅館街にハエを撒き散らすことになる。だから出掛ける5分くらい前から、蝿叩きを始めるのである。
 ハエは群がっている上に動きが鈍いから、一発目は5~6匹確実にとれる。ボンネットの上でばたばたやっていると、今度は発酵機の方へ避難する。その間にさっと出発するわけである。
 熟成槽で発生するハエはとても取り尽くせるものではないが、余り多くなりすぎると私に着いて広がっていく可能性も多い。冬越し前に出来るだけ退治しておきたいと思う。
 回っている発酵機にくっついたハエを叩くのは、工場の流れ作業のようなもので、ドラムにとまったハエが次々に目の前に回ってくるのである。しばらくするとドラムの下が黒くなるほど死んだハエが落ちている。鶏といいハエといい近頃やたら殺生するので、心からこれらの霊に詫びねばなるまい。

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鶏百羽   (1991年10月11日)

 今日の新聞の折々のうたに、『秋雨や鶏舎に押し合う鶏百羽』村上鬼城の句が載っていた。大岡信氏は、『秋雨の日、狭い鶏舎で押し合いながらうごめく鶏どもをえがいて即物性に富む。鶏の量感が勢いよく把握されている。』と解説している。
 我が鶏舎は広々としたもので、百や二百の雛が入ってもがらんとしたもので、まだまだ余裕があると思っていたのである。ところが雛もだんだん大きくなって一人前の鶏になると、あの広い鶏舎も鶏・鶏・鶏で今日の句に似た感じになってきた。
 さて95羽いるノーリンクロスは先月の末からやっと卵を産むようになったが、まだ小さくて売り物にならない。一年半経ったロードは五つ位しか産まないので、先月の卵の売り上げは23000円程にしかならない。それなのに餌代は25000円もかかっているので、今のところ赤字経営である。
 これは卵を産まない肉鶏が70羽もいて、盛んに餌を食うためである。そしてまたこの肉鶏は卵鶏に比べて体も一際大きくなって、とりわけ鶏舎を狭く感じさせるのである。
 年の暮れにかけて、薫製や塩蒸しや鍋物にして盛大に食べてもらおう。その頃にはノーリンクロスの産卵も本格的になるし、シェーバーや比内鶏も産卵し始めるから、食べてくれる人を捜す苦労もしなければならなくなりそうである。

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中郷中学校の火事   (1991年10月6日)

 仕事からの帰り、凄い煙が真っすぐに上がっているのを見てきたが、周りがあんまり静かなのでそのまま家に入って飯を食って寝ていたら、岡崎さんから電話があって、中郷中学校が火事で焼けてしまったということである。
 慌てて行ってみたら、古い木造校舎は見るも無残に焼け落ちていた。子供の悪ふざけが原因だそうだ。

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台風19号の被害   (1991年9月30日)

 台風19号の強風は悲惨な爪痕を残した。屋根トタンが剥がされたり、ガラスが壊れたり、蔵の星根が飛ばされた例が多い。コンクリートの電柱がこんなに沢山折れたのは見た事がない。
 とりわけ困ったのはりんごが全く残っていない位にふり落とされたことである。りんご農家は早々に出稼ぎに行かなければならないという話がもっぱらである。
 私の作業場も停電が三日も続いて、生ゴミが余ってしまい、そのまま熟成槽に積んだ。水が出ないので容器を洗うことも出来ず、おが屑で汚れを落とすドライクリーニングをやっているが、三日も繰り返すと埃っぼくなって匂いも少々残るようになる。なんとか早く復旧してくれるよう祈るばかりである。

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台風19号   (1991年9月28日)

 大型で極めて強い台風19号は、進路が洞爺丸台風に似ているから東北地方を直撃するかも知れない、という報道であったので、或いはこちらへやってくるのではないか位には思っていた。けれどもこれまでの台風は二度三度と大した影響もなく通り過ぎて行ったので、今回も余り心配もしていなかった。
 今朝は生温い風が吹いて雨が降っていたので、テーシャツの上に雨合羽を着て出掛けた。車のラジオでは台風は秋田沖を90kmのスピードで北上中とのことであるが、まだまだ大した風でもないから或いは北海道へ抜けたのではないかと思ったりしていた。
 今日は発酵機から飼料を出す日だから、5時半前から一輪車で飼料を運んでいた。そうしている内に急に風が強くなって、とても出歩けない状態になってきた。間もなく停電して発酵機は回らなくなり、仕事が出来なくなってしまった。おが屑は舞い上がる、水溜まりの水が吹き上げてきて、身体中がゴミだらけになる。帽子はどこへ飛んだか見当らない。
 落合のゴミ集めに回る時刻になったが、車ごと飛ばされそうでとても出掛けることは出来ない。暫く鶏舎のビニールを張った囲いの中で風の鎮まるのを待つことにした。鶏達も隅の方で肩を寄せ合って大風の成り行きを見守っているようである。
 9時過ぎて風は峠を越したようで、鶏たちはてんでに餌をあさり始めた。それでもまだ大きなビニールやりんご園で使っている反射盤がいくつも山の方へ飛んでいく。家のことも心配だから、後片付けをしないで一先ず帰ることにする。
 途中の被害はひどいもので、切れた電線が垂れ下ったり、屋根のトタンが散乱したり、電柱が折れて道を塞いだりで、やっとのことで家へたどり着く事が出来た。家でもサクランボやスモモの木が転んだり、テレビのアンテナが折れたり、野菜畑が荒らされたりひどい状態である。でも家が何ともなかったので良かった。こんな風は今まで経験した事がない。

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りんご園草刈り終わる   (1991年9月25日)

 8月6日に始めた今年三回目の草刈りは、9月12日までの間に10日出掛けてやっと終わることが出来た。けれども一番最初の8月6日に刈った所は大分草がのぴたので、そこをもう一度刈って終わりにしようと思っていたのであるが、なかなか行けなくて気になっていた。
 昨日一日で終わる心算で出掛けたのであるが、草刈り機の刃が全く切れなくなって途中で止めてしまった。見るとダイヤのいぼが全部無くなっているのである。新しい刃に付け替えて、今日また出掛ける。
 今年の草刈りはとうとう終わった。年三回の草刈りをこの肩掛け式の草刈り機でやり通すのは大変である。折角新しい機械を買ってもらったのに、余り勝手なことも言えないような気がする。まだ間があるからゆっくり考えることにしよう。

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ビニールの腕カバー   (1991年9月22日)

  生ゴミを扱い容器を水洗いするには、ゴム手袋を使うのであるが、どうしても右手が破れやすくて一週間もすれば右の手袋は使えなくなってしまう。左の手袋ばかり沢山残ることになるので、軍手のように右左自由に使えるような手袋を買ってみたが、これは弱くて直ぐ駄目になってしまう。冬には腕カバーのついた手袋を使わなければならないが、これも指先が破れればそれっきりである。
  今年になってから弘前の余り流行っていない店でゴムの長い手袋を見付けてきた。これは丈夫で一カ月くらい持てたので、随分助かったが腕の方がまだしっかりしているのに指が破れて捨てるのは勿体ない気がするのである。だから腕の部分だけのカバーがあればよいと思って探していたのであるが、それが先日サンワで見つかった。早速買ってきて使ってみたが大変具合が良い。
  そういえばゴムの前掛けも随分探し歩いてようやく見付けたものだ。こんな仕事をしていると、特別な道具が必要なことがある。そんなときには方々の店を探し歩くことになる。

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鶏を買いに行く   (1991年9月21日)

 第二鶏舎はロードアイランドも半分以上淘汰しなければならないし、シャモロックも食用に回してしまうと鶏が幾らもいなくなってしまう。寒くなってからだと、新しく入れた鶏は環境に帽応出来ないで死んでしまう。早いうちに卵用の鶏を補充しておきたいと思って、KMさんにお願いしていたのであるが、昨日黎明社に連絡してくれて今日午後早速買いに行くことになった。
 鶏の名前は殆ど横文字で、なかなか覚えにくい。私が買う鶏も、歯の抜けたKMさんは「シーパー、シーバー」と言うのであるが、おそらくこれはスーパーだろうと思っていたら、黎明社の主人が言うには「シェーバー」が正しい呼び方だそうである。
 若い主人もなかなか忙しいらしく、鶏舎の前を歩きながら私の質問に答えてくれる。
 黎明社の看板鶏はやはりこのシェーバーで、ロードアイランドを中心に改良を盛ねたものだという。シェーバーの中にはロードのように茶色の濃いものと、やや茶色の薄いものがある。
 黎明社の主人は色の薄い方が良いと言うのであるが、木村さんは色の濃いほうが好きだと言う。私はどちらもごちゃ混ぜに飼うので、二種類の鶏を比べてみることは出来ないが、どちらも10羽ずつ買うことにする。
 比内鶏の事を尋ねたら、これは卵肉兼用に改良を重ねて、農協から売り出しているものは全部黎明社で昨化したものだそうである。これも10羽譲ってもらって、合計30羽80日雛で一羽700円に負けてもらう。木村さんの顔を立ててくれたのであろう。これらの鶏は暮れには美しい赤い卵を産んでくれるにちがいない。

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厚目内の木村さんに連れられて   (1991年9月18日)

 弘前の鮪問屋から粗を貰う了解を得たので、具体的な打ち合せに行くといって、急に誘われて付いていくことになった。弘果市場の裏にある鮪専門の処理場である。
  店の前には鮪の粗が90リットル程の大きなポリバケツ三つに盛り上げて入っている。今日はこれで少ない方だという。何時もは犬に食わせる為に貰いにくる人がいる外は、ゴミ処理業者にやってしまうのだそうである。なんとも勿体ない話ではないか。
 さてこの鮪の粗を貰うことになると、先ず容器を準備しなければならない。それに此処でゴミを詰め替えたり、車につんだりするのに私一人ではなかなか大変である。それに毎日だと体力が続かないし、仕事のパターンも変えなければならなくなる。
 店の主人は都合の良い時に、使う分だけ持って行けば良いと好意を持って言ってくれるが、やる以上はきちんとやらなければと思うから、一応断ってもらう事にする。
 木村さんは私に黎明社種鶏場の主人に合わせたいといって、大館に向かう。途中長峰のシャモを沢山飼っている家に立ち寄る。庭のぐるりに金網の鶏籠が並べてあって、いるいる凄い顔をしたシャモが数十羽訪問した我々を睨んでいる。
 ここの主人も鶏好きの仲間であろう。生憎と主人は留守で、自慢話しを聞くことは出来なかったが、方々にこんな仲間がいることは驚くばかりである。
 黎明社は大館の入り口にあった。出荷前のきれいな雛が並んで壮観である。私のところのロードとは比較にならない立派な鶏のように見える。ここでも主人が不在で、鶏の話を聞くことは出来なかったが、雛を買うには試験場よりも良いような感じである。
 黎明社の近くで黎明社から買った鶏を育てている農家に寄ってみる。ここも主人が留守で、話を聞くことは出来なかったが、スーパーという鶏は惚れぼれする見事な鶏である。
 私はどんな鶏を飼ったら良いのか全く見当もつかないが、見学に来る人が多いから羽の色や姿形が良いものを飼っておきたいと思うのである。それに卵を沢山産んでくれれば尚有り難い。肉鶏については比内鶏よりもシャモロックのほうが良い、と木村さんは言っている。

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夜明け前   (1991年9月12日)

 四時半に起きたときはまだ暗くて、電灯をつけて支度をする。外へ出ると東の空は微かに明るくなって、夜明け前の荘厳な景色である。文章の巧い人ならどんな表現をするだろう。
 薄い翡翠の空にはひときわ明るい金星といくつかの星が夜の名残を止めている。山際はほんのりと赤く、手前の山並みや家々は紺碧のシルエットを描いている。南にはオリオンが次第に消えかけている。西の空はまだ暗い。

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近ごろ考えること   (1991年9月11日)

 毎朝4時半に起きて、生ゴミを集めて発酵機に詰め、ゴミバケツを洗い、鶏の世話をしたり、堆肥を積んだりして満2年経った。日数にして740日、ひょいと私のやってる事が何なのか考えることがある。
 ・仕事としては費用がかかりすぎて、作ったものが手間賃にもならないようで、我が社はとっくに倒産しているはず。そしてこれからも儲ける見通しが立たないとなると、仕事とは言えない。
 ・それでは生ゴミリサイクル運動かと言うと、それも全く進展が見られない。
 ・結局、私の趣味道楽に近いようだけど、それにしては周りの皆さんの協力援助に支えられている。
 世の為、人の為なんて考えていないから、自分のやっていることは説明のしょうがない。けれども、元を正せばSK先生のお話に啓発されて、堆肥作りをやってみたかった事と、良い堆肥を使った有機栽培のうまい野菜を食べたいという願いが強かっただけである。それが機械仕掛けで規模がなまじっか大きくなり過ぎたきらいがある。
 我が家庭菜園は60坪で猫の額程しかないが、化学肥料を断ち切ってからもう四年になる。そしてこの優秀な堆肥をふんだんに使っているのだから正真正銘の有機栽培である。
 この堆肥で作ったキュウリもナスもキャベツもササゲも、特別美味しく感じられるようになってきた。だから野菜はもう買って食べる気がしないのである。またこの野菜は健康にも良いようで、妻の場合野菜のせいかどうか分からないが、白内障が治ったり視力が回復したりと喜ばしいことが起こっている。これだけでも私のやっていることの目的は十分達していると思っているのである。
 毎戸からゴミを集めて歩くのは、労力・経費の面で極めて効率が悪い。この他に1000リットル位の大口があればよいのだが、今はそんなことを言っても仕方のないことだ。
 りんご園や水田の実験も後四、五年も続けてみなければ分からないことなので、今の状態でやっていく心算である。
 私のような事をやっている人は殆どいないようで、新潟鉄工では生ゴミを処理して出来た物について相談、ソデック社では新しく発酵機を設計する段階での相談にはるばるやってきた。ゴミ処理問題もこれからは行政でも企業でもやる気を出せば、いろいろと良い方法があって巧く出来るようになりそうである。
 日毎に増えるゴミの処理問題、農業の土を生き返らせる問題、安全でうまい野菜を普及させる問題等など、誰がどういう形で切り込んだら解決の方向へ進むのだろうか、あまりのんびりしてもおれないことのように思うのだが‥。

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シャモロックの試食と私の激励会   (1991年9月11日)

 鶏肉の食べ頃だという間に、私の仕事を物心両面から支えてくださっている皆さんに是非食べて頂きたくて、適当な機会を持ってくれるようお願いしていたのであるが、今晩それが実現した。
  会費5000円は一寸気の毒だが、良い鳥肉は優れた板前に調理してもらって、おいしく食べようという気持ちからである。30分ばかり私のつまらない話を聞いてもらってから、富士見館得意の料理を味わい、それから次々と鶏の料理が出てくる。
 鶏わさ・唐揚げ・焼き鳥・酒蒸しと続いてでる。味は鶏そのものの味がして、一般に出回っているブロイラーとは比べものにならない旨さである。私のてまえもあってか、皆さんが喜んで食べてくれたようである。
 鍋物が出ないのが一寸残念であったが、これ以上は賞味するのは無理なほど腹一杯になった。食物を楽しむ席は、酒の話しが面白い。菊乃井の社長が持ってきてくれた純米酒の話や、ビール・ウオツカ等など酒の話しが続いた。
 私のやっていることを味を通して分かってもらえた感じである。

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鶏の塩蒸しを習う   (1991年9月5日)

 厚目内のKMさんが鶏の塩蒸しを教えてくれるというので、沖揚平のKSさんに場所を貸してくれるようにお願いしていた。今朝シャモロックとロードを一羽ずつしめて、午後KMさんから預かっていた練炭コンロと蒸し鍋等を積んで出掛ける。
 二時頃から実習に入る。蒸し鍋に塩を敷いて、布に内臓を取った鶏を包んでのせる。その上にまた塩をたっぷり掛ける。火のおこったコンロにかけて二時間、取り出してみると肉が骨から離れてばらばらになって出てくる。指でつまんで食べてみると、微かに塩味がして柔かで鶏の旨味が何とも言えない美味しさである。これなら薫製の匂いが嫌いな人でも大丈夫食べられる。
 鍋にロードをセットして山を下りる。途中車の荷台の上で、コンロの通気孔が閉まっていたのを知らなかった。二時間経って取り出してみると、鶏は元の姿のままだった。火力が弱くて、骨と肉がばらばらに解れるほどよく蒸れなかったためであろう。初めての物には余り手を出さない母も妻も、旨いものだと言うところをみると、誰でも喜んで食べてくれそうである。
 燻製だと一週間もかかるが、すぐ食べる時はこれに限る。早速コンロを買って、鍋を探してみることにする。
 
 5月24日に30日雛で入れたノーリンクロスが卵を産み始めた。沖揚平でも二三日前から産み始めたそうである。何れ新旧交替で、古鶏は淘汰しなければならないが、白レグのような3・4年暮らした鶏でも塩蒸しにしたら食えるだろうか、試してみなければならない。

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視察に振り回される   (1991年9月4日)

 ソデックのYTさんからといって、今日視察に来ることを度々電話連絡頂いていたのであるが、何人来るのか何時に着くのか具体的な目的については聞いてなかった。ただONさんも一緒に見えるというから、なんとか訪ねて来れると思っていたのである。
 今日はトラックを車検整備に入れる約束があったので、少し早めに作業場を引き上げてきたのであるが、「お客さんを乗せて今黒石に向かっているが、どう行ったらいいのか道を教えてください。」と弘前のタクシー会社からの電話である。家は分かりにくいから、黒石中学校の前に降ろして下さい、と言って妻をそこに迎えにやって、私はトラックを整備会社へ納めに行った。
  10時半に帰ってみると、客人は若い方三人である。キャラクター・エンジニアリングの社長と専務、それに北越という会社の技術者らしい人である。何れも富山の会社であるが、昨日横浜のソデック社に呼ばれて、そこから急遽電車でこちらへ来たと言う。用件は車に積んだ生ゴミ発酵機を作れというソデック社からの要請であるが、使用している実際を見たいということである。この辺でやっと視察の概要が分かってきたので、これからの動きを尋ねてみると、依頼者であるソデックのお偉方が来る前に発酵機についてある程度知っておきたいというのである。
 早速作業場へ案内して、発酵機の運転や堆肥の作り方について説明をする。生ゴミの量や発酵させる時間等を考えると、車に積んだ発酵機の使い道は余り一般的でないようだし、生ゴミに入ってくるナイフやフォークやビニール等の選別と破砕器の取り付け方等新しい問題も出てきたようである。長い時間作業場で技術者同士の話し合いに加わって、昼ごろ引き上げてくる。家でそばを食べて、りんご試験場の参観デーを一回りして来る。
 ソデック社の面々は飛行機で来るので、二時頃には着くだろうと思っていたら、今食事をしてそちらへ向かうという横田さんからの電話である。それでは黒石中学校の門の所へ来てください、といってまた妻を迎えに出てもらった。すると入違いにハイヤーが来た。
 見ると黒石タクシーである。黒石タクシーなら家を知っているのに、私の聞き方も足りないけれども、何とも連絡の不十分な事に腹が立ってきた。先着のお客さんが気をきかして待ち惚けの妻を迎えに行ってくれる。五人といっていたお客が四人しか来ない、もう一人は遅れてくるのだという。それにしてもソデックの社長や付き人、ON氏等急に七人も座ってもらう所も準備していないもんで、全く冷や汗ものである。
 すぐ作業場へ案内し、先客は四時頃弘前へ送る。遅れてきた一人は、少し大へいで夕方作業場へ案内して、そのまま大鰐の錦水ホテルまで送り届ける結果になった。これから訪問客もそんなにあるわけもないが、余り親切にしすぎるのも考えものだと妻と話している。

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生ゴミリサイクル運動二周年記念日  (1991年9月1日)

 生ゴミを集めて堆肥を作る活動も、一日も休まずに続けて二年経った。冬の雪との戦いは格別のものであるが、あとは何の苦もなく体が自然に動いていく感じである。
 発酵機の操作も二年がかりでやっと満足に出来るようになったし、堆肥の積み方も自分なりにやっている。鶏もこの発酵飼料を与えればすごく健康になることが分かったし、この堆肥で作った野菜は特にうまいということも自分では実証出来た。
 りんご園はやはりあと三年くらい経過をみなければ何とも言えない。水田も自分の手でやってみたいのだが、とても手が回りそうにない。
 とにかく生ゴミを資源として、土をよみがえらせることは、どうしてもやらねばならないことのように思われる。行政はなかなか腰を上げないけれども、二人の開拓の創始者が私のやっている事に関心を持ってくれたり、よそから視察に来たりするので、いくらか工夫をする機会が必要である。
  養鶏もこれから先どう経営したらいいものか分からないし、仕事の内容もこのままの状況で推移していくだろう。
 今日は生ゴミを提供してくれている所に、感謝の手紙をゴミ容器にくっつけて差し上げた。

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婿に選ばれた雄鶏  (1991年8月30日)

 厚目内のKMさんが退院して、作業場に顔を見せてくれた。もっとお話を聞いてみないと分からないが、KMさんは厚目内開拓の第一人者で、沖揚平のKSさんと好対称の方であるようだ。
 私の俄仕事をこんな農業の大家に見られるのはそら恐ろしい。堆肥にしたって養鶏にしたって何十年も苦労してこられて、一目見ればみんな分かるようである。
 ところがこの農業の大家が私の堆肥や鶏を見て感心してくれるのだから嬉しくなる。勿論ずぶの素人にしては少しましなことをやっているという気持ちもあろうけど‥。
 ともあれ私のやっていることに、二人の開拓者の元祖が関心を持ってくれることは、それなりの訳がありそうである。
 KMさんには雄鶏を差し上げる約束をしてあったので、早速選んでもらう。選ばれた雄鶏は体も他の鶏より大きめで、一際目立っていた。
 みんなの前にたちはだかって私に飛びかかってくる親分の鶏であった。彼が婿に行ったら、あとは誰がボスになるのだろう。
 木村さんは暫く、鶏の話・堆肥の話・農業の話をしていった。さすが開拓実践者である。今の若い者達もこうした人の話をよく聞いて、農業の進め方を考え直す必要がありそうである。

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