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廃鶏が死んでいく (1989.10.30)

 10月5日に10羽、11日に64羽入れた廃鶏は10月末までに、次々に15羽も死んだ。
  発酵が進んだ堆肥は餌が少ないのだろう、鶏たちは発酵機から出した新しい堆肥に飛びつく。
  廃鶏は新しい環境に馴れない為に死んでいくと思っていたのだが、もしかすると食物が少なくて死んだのかもしれない。
  10月30日から、発酵機から出したものを古い堆肥の上に広げてやった。
  鶏たちは盛んに餌を探して食べて、いくらか満足した様子である。

 

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顔が変わったと言われて (1989.10.26)

  10月26日午後N先生夫妻とFさんを迎えて、中野山の紅葉見物に出かける。
  午前中よく晴ていた空が、予報通り厚い雲に覆われて、激しい雷雨になる。
  傘をさしての紅葉見物もなかなか風流なものだ。幸い中野山にいる間、雨は暫時止んでくれた。
  私の堆肥作りの作業場を見てもらったが、羽毛の抜けた鶏の痛々しい姿に心を痛めたようだった。
 それからここと同じ発酵飼料で養豚・養鶏をやっている沖揚平の葛西武弥さんを訪ねる。
  武弥さんは沖揚平開拓の最初からの入植者で、78才とは思えない元気さである。
  挨拶もそこそこに、「いやあ先生、うちの息子と娘が『斎藤先生の顔が変わってしまった。あれは堆肥作りの仕事をしたからだろう。』と言っていたが、ほんとにいい顔になった。」と、あの優しい目でまじまじと私の顔を見て言うのです。
  不意を突かれてどぎまぎしていると、奈良先生が「どう変わって見えますか。」と訪ねる。
 「そうだな、先生の時は厳しい顔だったが、今は仏様のような顔になった。」と言うのです。
 私はこの堆肥作りだけに熱中していて、浮世離れしているのかも知れない。
  それにしてもいろいろな感じ方があるものだと思った。
 発酵飼料による養豚は、集める生ゴミの量が不足で止めたそうだ。
  その代わり丸々と太ったごま鶏や赤鶏がゆったりと餌をついばんでいる光景は、いかにも豊かな農村の姿である。
  この自然で健康な卵は、やはり高い値段で買いに来るそうである。
 800メートルの高地の天気は特に変わりやすい。雲は益々黒く下界に稲妻が走る。
  まごまごしていると雪になって帰れなくなるかもしれない。庭先でお話を伺って急いで帰ることにする。
  有機栽培の大根や人参を頂いてくる。
 雨に煙る山々の紅葉は格別美しい。絵のような景色を眺めながら、車はゆっくりと山をおりた。

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鶏たちのその後(1989.10.7)

  10月7日

 生ゴミが昨日の分と合わせて発酵機の半分くらいになったので、機械の運転を始める。
  これを始めると11時まではかかる。
  四つめの産卵箱を作る。
  長い時間かける割には下手くそだ。
  午後Fさんの出版記念会があるので、落合の共同浴場で入浴してから、機械を止めて帰る。
 鶏たちは此処へ来て3日目になる。
  余り目立たないが少しずつ元気になっているような感じだ。
  昨日まで群れから離れてうずくまっていた元気の無い一羽の鶏も、今日は群れの中でうずくまっている。
 今まで毎日卵を生まさせられていたのが、環境が変わって、卵を生まなくなった上に絶食しているようである。
  体の中に大きな変化が起こっているのであろう。
  ここは鶏たちの健康にはとてもいい場所だと思うのだがどうだろう。
 帰りにまた堆肥の上に一つ大きな卵が生み落とされていた。

 10月9日                                                        l
 K先生を訪ねて見えたMさんからお話を聞く。
 死んだ土を起らせるために、何とかしなければと同志が集まり、知恵を絞って生ゴミを一昼夜で完熟堆肥にするプラントを作った。
  生ゴミをそのまま入れて、かき混ぜながら熱風を送りこむこ或る種のバチルスを加えて70℃くらいまで温度を高めると、発酵して、翌日さらさらして無臭の完熟堆肥が出来上がる。
  都会の有り余る生ゴミをこうして土に返してやることを計画している。
  水分調節も要らない、一日で大量の生ゴミを処理出来る。
  正に画期的な事ではないか、そしてやがては各家庭で出来るシステムを考案しているのだと言う。
  私のやっている方法にも熱風を送るシステムは取り入れられそうだ。
  今日はすごい話を聞くことができた。

 10月11日(水)晴

 約束の時間10時に小国養鶏場へ行く。
  連絡していたとうり廃鶏が50羽、三つのゲージにびっしりと詰められていた。
  体の三分の一くらいは羽が抜けて、桃色の肌が剥出しで見るも無残である。
  もう一つのゲージには小柄な堆鶏が12羽入っていた。
  こちらは真っ白で生き生きしている。
  沢山の雌鶏の中に間違って入ってくるのだそうで、これはサービスしますと言う。
  お金はこの前と同じでいいですと言うが、木村先生の話だと10日過ぎれば100円になると言っていたので、たしか5000円は準備して来たのだが、慌ててバックのなかをかき回しやっとのことで7500円支払う。
  すると二羽おまけしましたと小さな声が返ってきた。
 作業場へ帰ってゲージの中から一羽一羽つかみ出すと、そのにぎやかなことにぎやかなこと、この前とは全然違う光景だ。
  数が多いせいなのだろう、羽の抜けた割りには元気に走り回ってちっともじっとしていない。
  それにしても70羽にもなると、なかなか壮観である。
  ゲージを返して来る間に床に卵が五つ六つ転がっていた。
  喧しい鶏たちのなかで、一週間の先輩たちは落ち着いて一際立派に見えた。

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養鶏を始める(1989.10.5)

  10月5日待ちに待った鶏を放すことになる。
  生ゴミ処理の仕事が一段落して、10時頃木村先生から連絡されていた通り、小国部落の東奥ファーム(養鶏場)へ行く。
  道の両側に並んだ細長い鶏舎の下には鶏糞が淀んで、異様な臭気が鼻を突く。
  折りよく鶏舎から出てきた若い婦人に来意を告げると、笑顔でSさんのところへ案内してくれる。
  此処で働いている人達はみんな明るく、てきぱきと応対してくれて気持ちがよい。
  悪臭が立ち籠める職場の人間とは思えない爽やかさだ。
 薄汚れた鶏がごちゃごちゃに入っている金網が持ち出されて、その中から10羽ダンボール箱に詰め込まれた。
  それを紐で結わえてトラックに積み込んでくれた。
  誠に手慣れていて何の造作もない仕事ぶりに感心した。
  この鶏は後一週間程で廃鶏になるのだそうで、まだ卵を生んでいる鶏だという。
  だから一羽150円にしてくれるそうだ。
  しかしこれはあくまでも従業員Sさん名義でやってくれると聞いている。
 いそいそと作業場へ引っ返して、広い鶏舎の中でダンボール箱の紐を解く、それでも鳥たちはずっとうずくまったまま箱から出ようとはしない。
  しばらくして箱から追い出す。
  一羽だけグッタリとよこになっていた鶏は、もう息が絶えていた。
  飛び出した鶏たちはヨタヨタして満足に歩けないのだ。
  これまで狭い金網のなかで、卵を生むことだけさせられてきた鶏たちのなれの果ては、惨めなものである。
  つめは長く延びて、地べたに足をつくと指が横になって、苦しそうだ。
  嘴はちょんぎられたものであろう、短くまるまって虫をついばむようなことは出来そうにない。
  やがて産卵場の下の薄暗い所にひと固まりになって、動こうともしない。
  鶏たちにとっておいしいはずの餌が、文字どおり山のように積まれているのだが、一羽としてそれを食べようとしないのだ。
 私は鶏を飼った経験はないから、どうしたらいいのか分からないが、毎朝水を取り替える事だけは忘れないようにしよう。
  早く元気になって、私の作ったおいしい餌を腹一杯食べてくれればいい。
 まかり間違えば、もう少しでこの鶏たちも廃鶏になってつぶされ、安売りの唐揚げになるかもしれなかったのだ。
  そう思えばしばらくはこの馴れない環境も我慢できるだろう。
 翌日、相かわらず産卵場の下の薄暗い所で一塊になってじっとしている。
  広い所がよかろうとそこから追い出せば、コッコッコと逃げだすのだが、何もせずにまた元の所へ戻って来てしまう。
  入り口の所へ置いた水も飲んだ様子がないので、鶏たちが屯している近くまで持っていってやると、一羽二羽とやってきて水を飲み始めた。
  昨日よりは少し機敏になってきたようだし、歩き方もしっかりしてきたような感じだ。
  卵が一個堆肥のうえに生み落とされていた。
 一羽だけ一団と掛け離れた所にうずくまって動かないのがいる。
  追い立てると、慌てて立ち上がるが、またへタへタとしゃがみこんでしまう。
  死なないでくれればいいが。

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堆肥作り今後の課題(1989・9・30)

○堆肥作り今後の課題(1989・9・30)
 この仕事を始めて一カ月になる。我ながらよくやってこれたものだと思う。
 「この雨降りにご苦労様です。」
 「冬になっても来てくれるんですか。大変助かります。」
 こんな言葉に励まされて、ゴミ集めは順調に進んでいる。普段はこんなことをしたこともないのだが、ずぶ濡れになって容器を洗う仕事も、だんだん苦痛でなくなった。
  近頃はひだのある取っ手の洗い方等が分かって、一人で納得している有様である。
 堆肥も大分蓄まってきた。金にしたらいくらぐらいになるものだろうか、ずいぶん元手のかかったやつだ。
  私が見れば金色に見えるが、傍目にはそんな訳にはまいるまい。
 明春からは、野菜・果樹・稲作の実験農場をやらねばならない。
  これだって何人かが協力してくれなければ出来ないことである。
 さしずめこの発酵させた材料を餌にして、養鶏を始めてトラックの油代でも賄いたいと、しみったれた考えが頭をかすめる。
  いや、しみったれた考えなどと軽蔑してはいけない。
  いい仕事をしていくためにもっと緻密に計画を練らなければいけなかったのだ。
 十和田市では、この鶏の卵が一個30円で、需要に応じきれないと言っていた。
  果たしてそれだけうまくいくかどうかは分からないが、今は健康と味を考えて食物を求める時代のようだ。
  折角いい材料が作られているのだから、金網で簡単な鶏舎を作って、卵が欲しいならレグホンかウコツケィ、肉が欲しいならコーチン等と、オーナーが出来てくると、経営も楽になるし、運動にはずみがついてくると思うのである。
 私もいつまでも採算のとれない実験ばかり続けるわけにはいかない。
  それに、こうした力仕事にいつまで耐えられるか分からない。
  この仕事を長く続けるためには、十分採算が取れるよう経営基盤を作り上げなければいけない。
  そして後継者を探さねばならない。
 この作業場は生ゴミを扱って一カ月になるが、あのゴミ処理場特有の悪臭はない。
  養豚場や養鶏場も体に染みつくような臭みがあるものだが、この発酵飼料の場合はそんな悪臭はしないと言うから、是非早くやってみたいと思うのである。
  そうすれば誰か見学に訪れても安心して見せてあげられそうである。
 生ゴミは貴重な資源である。
  魚のあら等を捨てるのに苦労している方が居られたら、相談をかけて欲しいものである。                                

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内城式発酵機を使った本格的堆肥作りへ(昭和63年)

○  - その2
 今年の秋は、日照りの夏とは対照的に雨が多い。
  雨に濡れながら軒並み生ゴミを集めて歩くのは、殊更に嫌なことが多い。
 考えてみれば、1200リットルも入る発酵機を使うのに、一軒一軒生ゴミを集めるのは極めて効率が悪い仕事である。
  大口の生ゴミがあれば、余り苦労しないで毎日でも運転出来るのだが、ここではそんなに沢山の生ゴミを出す事業所もない。
  でも生ゴミを貴重な資源として活かすという気持ちになってもらうには、一軒一軒集めた方が効果的だ。
 生ゴミを出してくれている方々にも、いずれ仕事場を見てもらって、生ゴミが資源として活かされていくことを知ってほしいと思うのである。
 生ゴミは時節柄西瓜やメロンの皮が大部分で、おが屑を少し多めに混ぜても、水分が多すぎて発酵が進まない。
  発酵機は回転しながらバーナーで熱を加え、Z菌が活躍する温度(60~70℃)まで暖めるのであるが、所定の3時間経っても40℃にもならない。
  機械を運転したまま、11時頃家へ帰って飯を食う。  遅い朝食である。
  一時間程、仮眠して、また作業場へ出掛ける。
  機械を運転してから5時間も経っているのに、50℃にもなっていないのである。
  これまでの苦労が無駄になってしまうのだろうか。
  灯油は食うし電気代も馬鹿になるまい、辞めて機械を止める。
 なんともさっぱりしない気持ちであるが、おが屑にまみれた体を洗うために落合の温泉に入る。
  いい気分になることが出来た。この仕事にはもってこいの地域だと思った。
 翌日からは、ホテルや宴会場から大量の魚の粗が出されるときは、嬉しくて拝んで頂いてきている。
 2日か3日経って、生ゴミが機械の中の半分を越えると、温度を50℃以上に上げて、翌朝それを機械から取り出すのである。
  この発酵させたものは隣の部屋に運んで、一回毎に山積みにし発酵の進み具合を調べている。
  幸いなことに今のところどれも60℃を越えているので、順調に発酵し続けているものと思っている。
 これを2~3カ月このままにしておいても、完熟した堆肥になるはずであるが、それでは勿体ない。
  これを飼料にして、鶏か豚を飼ってみたいと思って、先ず鶏舎を作り始めたが、有り合わせの材料ではなかなかうまくいかない。
  屋根の部分は一人で出来ないので、誰か応援に来てくれるまでほったらかしておくことにした。
 もはや宮使えではない自分で自分の仕事をしている。
  人に気兼ねは要らないけれども、多くの人の協力なしには思うようにいかない仕事である。

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内城式発酵機を使った本格的堆肥作りへ(昭和63年)

○内城式発酵機は新品で買えば100万円以上もするから、とても手がでない。
  ところが中古品を安く売りたい人がいたこと、から、話は急テンポに進んでいった。
 場所は少し遠いけれども、黒石市郊外の中野の生コン工場の跡が借りられそうだ。
  あそこならたとえ蝿が湧いたとしても、人家が違いから傍迷惑なことも少なかろうと考えた。
  ここでは機械さえ買えば後はあまり金がかからないと、だれもが思っていたのである。
 6月13日岩木町の農家から中古の発酵機を譲り受けてきた。そしてA整備工場で修理してもらうことにしたのである。
 発酵機の修理が終わって、中野の生コン工場跡に据え付けたのが7月14日。
  それから一週間ほど現場へ行って掃除をしたり、発酵機の手入れをしたりしていたが、運転する迄には、まだまだやらなければならないことがいっぱいあるようだ。
 発酵機まで電気を引く事、生ゴミを運ぶトラックはどうするか、おが屑はどこから買ったらいいか、生ゴミをどこから集めるか、など金がかかることや巧い交渉が必要な事はなかなか進展せず、長い時間かかった。
 なおいろいろな問題があり、不安も多かったが、同志の努力で9月1日から、とにかく始めることにしたのである。
 私はA整備会社が貸してくれた古めかしい一トントラックを運転して、朝5時に家を出た。
  市街地から2カ所、落合は20軒ほど自分で作った名簿を頼りに生ゴミを集めて、ようやく作業場へたどり着いた。
  Bホテルでは60リットルの容器にいっぱい入っていたので、持ち運びが大変だった。
  腰が痛くて、こんな仕事が続けられるものか心配になった。
 集めた材料はおが屑を混ぜて水分を調節し発酵機に投げ込む。
  昔の蒸気機関車の火夫のよおうな感じである。
  これもなかなかきつい労働だ。
 初日はゴミの量が少なくて発酵機の容量の4分の1程にしかならなかった。
 生ゴミを発酵機に入れてからは、容器の洗浄にかかる。
  各家庭で準備してくれたポリ容器は、新しいもの古いもの様々である。
  古い容器の汚れはスチールたわしできれいに落とすことができた。
  お互いに大事な資源を扱っている気持ちで、汚いものに触りたくない嫌な感じを無くしなければならないと思うのである。
 始めてみてまず感じたことは、意外に金がかかるということである。
  おが屑も予想外に高いものだったし、運撒用自動車のガソリン代、バーナーの灯油代等酷出る一方である。

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家庭用堆肥作り

○ 発酵機を使って本格的に堆肥作りをする夢は脹らんだが、実現までにはまだまだ困難な問題がある。
  私は予備段階として、生ゴミにZ菌(酒井教授が開発した発酵菌)を振りかけて自然に発酵させる堆肥作りを始めることにした。
 酒井先生の指導で、ポリエチレンネットで直径2m、高さ1mの円筒形の堆肥槽を作った。
惣菜屋さんから魚のあらや野菜屑をもらってきて、おが屑を混ぜて水分を調節し、Z菌を振りかけて堆肥槽に積み上げていくのである。
ところがこの堆肥槽はずいぶん場所を取るし、始めの段階で材料を積み上げるのが難しい。
そこでもっと小規模なブロックを使った堆肥槽で実験することにした。
これは堆肥が増え次第ブロックを積んでいけばいいので、大変具合がいい。
 材料を積んで2日3日経てば40℃・50℃と温度が上がっていき、一週間もすれば60℃にもなって発酵は最高潮に達する。
寒さに関係なく、雪の中でも発酵が進んで温度が上がっていくので、嬉しくてたまらない。
 けれどもここまで来るには、何度か失敗があった。
 まず、おが屑が少ないと、材料によっては水分が多すぎて発酵しない。その時はどろどろして悪臭を発する。
温度も40℃くらいにしかならない。野菜や果物が多すぎる場合もそんな状態になることがある。
とにかく水分の調節が成否の鍵を握るようである。

 これは失敗とは言えないが、なにせ暖かい上にうまいものがいっぱいあるものだから鼠が住みついて縦横に走り回る。
ポリェチレンネットに穴をあげたり、ブロックの下に通路を作ってブロックをひっくりかえしたり、困ったことをしてくれる。
これを防ぐには猫を飼っておけばいいという意見もあるが、殺鼠剤を通路に置いておけばいいようである。
 こんなことで11月から始めた堆肥作りの実験も一応成功したのであるが、春になって困ったことが起こった。
 発酵の過程でウジがわいて、蝿がすごく発生したのである。これは近所迷惑なことになる。
私はしきりと蝿叩きを持って堆肥槽のまわりで蝿を叩いた。しかし、叩いても叩いてもおびただしい数の蝿が湧いてくるのである。
 よく見ると、内部の温度が上がってくるとウジは慌ただしく表面に這い出してくる。
堆肥の表面にビニールを掛けておくと、這い出したウジは日光の熱で死んでいってるようである。
それでも日陰の方に移動したものは生き延びるのである。
 これを止める方法を考えないと、街の中で堆肥作りをするのは傍迷惑なことになる。
しかし一旦発酵して何日か経った堆肥には蛾が全然寄り付かないようである。
 Z菌を使って生ゴミを自然発酵させる堆肥作りの実験は7月で一旦終わることにした。

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堆肥作りに魅せられて

 ○ 動機
 昭和63年の秋、信州大学農学部教授酒井信一先生のお話を聞く機会があった。お話
の内容はおよそ次のようなものであった。
1 化学肥料の使用によって、田畑の土は死んでしまった。作物を育てる土を廼らせ
  るためには、完熟した堆肥を少なくとも5年間続けて施さなければいけない。
2 昔の農業は、生物の排泄物や残骸を土に返す自然のサイクルがあったが、下水道
  やゴミ処理が発達してそのサイクルが切れ、自然が失われてきた。
3 生ゴミは何処でも厄介者にされているが、堆肥作りの貴重な資源となる。
4 長野県の内城農場では、自然のサイクルに従って素晴らしい有機農業を続けている。
5 内城式発酵機を使って生ゴミを発酵させ、それを3~4カ月積んでおけば、完熟
 した堆肥が出来上がる。またその発酵したものは、豚や鶏の餌としても優れたもの
 である。
今は、水耕栽培等と土が無くても植物を育てることができる時代だけれども、近ごろ
は、やたらに有機栽培の作物が求められるようである。
 私も少しばかりの裏の畑は、有機栽培というわけで牛糞や鶏糞を求めて使っていた。
ところがべとついたり悪臭が強かったりで、いやな思いをしてきたものである。
 酒井先生のお話では、べとついたり悪臭のあるものは堆肥として未熟で効き目が少な
いそうで、完熟した堆肥はさらっとして臭みがないのが特徴である、ということであっ
た。 そのせいであろう、作物の育ちが思ったより良くなかったので、高価な有機配合
肥料を追肥として使って、遅れを取り返していたのである。
 そのように折角堆肥を使っても、化学肥料を混ぜると土は作物を育てる機能を失って
しまうのだと酒井先生はおっしゃる。
 知らぬこととはいいながら、なんと無駄なことをしてきたものだと悔やまれたことで
ある。
 土作りを農業改善の基本的な問題として考えれば、それは私どもの力の及ぶところで
はない。然し余計な費用を掛けて、役に立っものを捨て去っている大変な過ちを知らさ
れては、なんとかしなければならないという衝動に駆られる。なによりも安全でうまい
ものが食べられるとなれば、これは魅力がある。同席した5・6人の人達で、生ゴミを
資源として堆肥を作る仕事について、極めて純粋な話に花を咲かせたのである。

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